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人生って~その4

2009.06.10

人生を謳歌した人特集の一人目です。
思い浮かぶ人は、「中村天風」さんです。
この人ほど、人生を駆け抜けたと感じる人はいません。
人切り天風と恐れられ、結核になり、生死をさまよい、そのはてに、インドのヨーガの仙人に出会い、精神世界を説いた人生。
天風さんには大きな影響を受けたし、とても感謝しています。
原点とも思える人です。
すごく簡単ですが、以上です。次回は、2人目、あの人です。お楽しみに!
以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からです。
1876年大蔵省初代抄紙局長の中村祐興の息子として現東京都北区王子で出生。父祐興は旧柳川藩士で、中村家は柳川藩藩主である立花家と遠縁にあたる。王子村(現北区王子)や本郷で幼少を過ごした後、福岡市の親戚の家に預けられ、修猷館中学(現・修猷館高校)に入学。立花家伝の随変流の剣術居合も修行した。幼少期より官舎の近くに住んでいた英国人に語学を習い、修猷館ではオール英語の授業を行っていたため語学に堪能になる。柔道部のエースとして文武両道の活躍をするが、練習試合に惨敗した熊本済々黌生に闇討ちされ、その復讐を行う過程で相手を刺殺(ただし正当防衛は認められた)、修猷館を退学になる。その頃、玄洋社頭山満の知遇を得る。
16歳の時に頭山満の紹介で陸軍の軍事探偵(特殊工作員)となり、満州へ赴く。軍事探偵として活躍し「人斬り天風」と呼ばれたという。1904年(明治37年)3月21日コサック兵にとらわれた三郎は銃殺刑に処せられるところであったが、ギリギリの瞬間に部下に救出された。113名いた軍事探偵のうち日露戦争から生還したわずか9名のうちの1人。
日露戦争後30歳にして、奔馬性結核を発病。33歳の時、病気のために弱くなった心を強くする方法を求め、アメリカ密航する。途中アメリカでは自らの病の原因を尋ねてコロンビア大学自律神経系の研究を行ったとされる。イギリスに渡った後、フランスでは大女優サラ・ベルナールの家に居候し、各界の著名人に会う機会を得るが、いずれも納得の行く答えを得ることができなかった。1911年日本への帰国の途上、カイロにてインドヨーガ聖人カリアッパ師と邂逅。そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第3の高峰、カンチェンジュンガのふもとで2年半修行を行う。
1913年日本へ帰国途上、中国で孫文の第2次辛亥革命に「中華民国最高顧問」として協力。その謝礼として財産を得た。東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任、実業界で活躍する。
1919年突然感じるところがあり、一切の社会的身分、財産を処分し、「統一哲医学会」を創設。街頭にて教えを説き始める。政財界の実力者が数多く入会するようになり、会は発展していく。1940年「統一哲医学会」を「天風会」に改称。1962年国の認可により「財団法人天風会」となる。
1968年12月1日死去。享年92。
「笑顔は万言に勝るインターナショナル・サインである」という言葉を残している。

主な著書 [編集]

天風に師事した著名人 [編集]