大山食品とは

酢は百利あって一害なし

綾の自然の中で、発酵とともに歩んできた大山食品は、日々の食卓に寄り添うものづくりを続けています。

1930年に大山清が創業して以来、発酵食品を中心に製造を行ってまいりました。

発酵食品である「酢」は、麹菌や酵母菌、酢酸菌などの有用微生物の働きの上手に利用してできる伝統的な調味料であると同時に、腸内の調子を整えたり、主要成分である酢酸が疲れを取り除く作用があるといわれる食品でもあります。食生活に、日本の伝統的な発酵食品を積極的に取り入れていただき、健康で幸せな生活のお手伝いができればと願っています。

宮崎県綾町

歴史

創業は1930年(昭和5年)
初代 大山清が、野中宇平次に師事し、国富町にて玄米酢の製造を始める。家庭でお酢をはじめとした調味料は自作していた。流通する酢は主に醤油やが製造しており、宮崎には「かだやす商店」と「杉田商店」しかなかった。

食糧不足で米をお酢の原料に使うことは禁じられた(1937年~1953年)。代わりに化学製品である氷酢酸に人工甘味料を混ぜた「合成酢」が流通。

1941年 太平洋戦争勃発
空襲で工場が消失し、宮崎県食酢工業「日の出酢」に合流。工場に備蓄していた原料や壺などの製造機器を供出。大山清も召集令状を受け出兵。同僚は南方に送られ、戦士した人も多かった。

宮崎のお酢会社で宮崎県食酢工業「日の出酢」設立。木炭を焼いて黒煙を冷却したものに甘味料を加えた「木酢酢(もくさくす)」の研究も行われた。

1945年 終戦
お酢会社は各社に戻り、各々で製造を再開。米不足により、蒸れ米や煙い米も活用した。1950年には朝鮮戦争特需が起きた。

1947年~1948年 大山清帰還、大山酢店再開
物資不足により、赤江浜で海水を汲み塩を作るところから業務再開。

倉庫に残っていた塩や原材料を一部使用。原料米が手に入らず合成酢を製造。

1955年 こんにゃくの製造開始
当時、酢の仕込みが少なくなる冬の時期に、酢屋の冬仕事として始まった。

生芋を使ったこんにゃくづくり

1967年~1968年
木脇に新工場建設を予定していたが、水の関係で綾町の現:宮崎銀行の場所に会社を移し、工場の場所を探した。水質、水量、山からの伏流水などの条件に合う水探しが始まった。

お酢は国富町で作り、綾町で瓶詰めをしていた。

1972年 大山食品株式会社 設立

1973年 綾町に工場を移転
黒酢ブーム到来。これまで黒酢や玄米酢はあまり見向きもされず、作っているところも他にはなかった。

1980年 食酢の日本農林規格認定工場となる

三石和甕(さんごくわがめ)による黒酢づくり。
大山食品の"核"となるもの。元は焼酎の一次発酵などに使われていたが、時代の変化とともにタンク仕込みが主流となり、多くの甕が使われなくなっていった。それらの三石和甕を少しずつ譲り受け、おおよそ300本の甕を集めた。

工場の南側に埋められた三石和甕

こうして 国内でもこの規模では他にない、伝統製法による「屋外三石和甕仕込みの黒酢」が誕生する。

甕蓋に置いた5円玉に吹く、発酵を見極めるサイン「緑青(ろくしょう)」

1983年~2002年
二代目 大山壽一(初代の長男)

現在も会長としてサポートをする二代目。明治大学卒業後、フンドーキン醤油での勤務を経て、1961年に入社。販路開拓に熱心で、東京はもとよりいち早く海外販路(ヨーロッパ)の糸口をつかんだ。

2002年~2006年
三代目 大山哲郎(初代の次男)

有機農業を実現するためのまとまった農地を確保、現在の自社栽培と有機栽培の道筋を作った立役者。

テレビ「新どっちの料理ショー」に黒酢と出演し、大山食品の名を全国に轟かせた。

2006年~現在
四代目 大山憲一郎(初代の孫)

2008年8月8日。在学中からの夢だった日本酒醸造の夢実現に向けて国富町法華嶽に『ほけだけパークハウス 八町坂』を個人事業で開始。

愛するものは、日本酒、音楽、映画、本、車、オートバイ、発酵食品、家族、スタッフ、仲間、自然海塩、天狗。

原料や発酵を会社の理念に沿って選ぶこと。発酵をこよなく愛す四代目は、今までにない商品を次々に生み出している。

大山憲一郎 著書「発酵と」(電子書籍)

受け継がれるものづくり

時代とともに新しい商品も増えていった。特に「柚子ホットソース マーシー」は、海を越え、多くのお客様に手に取っていただく商品となった。

さらなる販路拡大に際して、ISO22000からFSSC22000まで、世界的な認証取得に取り組み始めた。

発酵食品で世界中の人を幸せに。みなさまの食卓に私たちのつくる食品が並ぶことが、何よりもの幸せです。